テピートのこだわり Tepito's Commitment

玄関にある大きな写真の人はだあれ?

それは チュ ー チョ・デ・メヒコです。

1960~70年代にかけて、世界的に活躍したメキシコのミュ ージシャン『トリオ・デルフィネス』の中心メンバー。
1952年に結成されたグループは、その高いテクニックと豊富なレパートリー で人気を博し、ヨ ーロッパ、ソ連、南米諸国て公演、日本には1964年初来日。以後毎年のように来日公演しては、テレビ、CM、ステージで活躍。
メキシコを訪れた外国の首脳、 王族の前て演奏。 米国ホワイトハウスで何度もケネディ大統領、ジョンソン大統領の前で演奏。 日本でも天皇陛下をはじめ、要人たちの為に演奏。
1986年にメンバーの一員であった兄のホセが病に倒れ、トリオを解散する。
その後、活動の場を日本に移し、ソロの演奏家として活躍。
数十年経過した今でも、 メキシコのラジオからはトリオ ・ デルフィネスの歌声が流れない日はないというほどの根強い人気を保っている。
滝沢久美と再婚後、メキシコと日本の文化交流に積極的に活動。
1993年より音楽教室「アカデミア ・ デ・チュ ーチョ」を開き、数多くのアルパ奏者を育成。
2000年、在日ラテン人たちでマリアッチ ・ ロス ・ コンバニェロス」を結成。
イベントやTV、たまごっちや資生堂などのCM でも活躍。
2008年6月、40 数年に及ぶラテンアメリカとメキシコの音楽普及活動をメキシコ大使館より表彰される。
2016年3月没83歳

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「テピート」の意味。 地名?

【テピー ト】とは、メキシコシティにある下町の名前のことです。
外務省に「旅行者は危ないのて近寄らないよう」とまで言われるほどの危ない街。
貧しいけれど、いつも、どこにても笑いと音楽があり、みんなで肩を寄せあって暮らしている。
テピー トの女主人、滝沢の夫、チュ ーチョはそんな小さな町で育ちました。
決して治安が良いわけても豊かな街でもありません。
一方、この町からはたくさんの芸術家、音楽家、スポーツ選手が育っています。
貧しさに負けないでいつも未来を見つめ、希望を捨てないで努力した人たちがこの町を巣立っていったのです。
その中の一人が チュ ーチョ ・ デ ・メヒコ です。
1960~70年代に世界を算台に活躍した、天才的音楽性で人気を博したミュ ージシャン。
そのチューチョの音楽の優しさ、哀しさ、美しさの原点でもある懐かしい街、テピート。
その町の名前をチューチョの店に付けました。
店内に流れているチューチョの音楽にお耳を傾け下さいませ 。

どうしてメキシコ料理を始めたの?

添加物は‘‘愛情だけ” 滝沢久美オロアルテ

「どうしてメキシコ料理を始めたのてすか?」というご質問を受けることが度々あります。
「話すと長くなりますので…」と、厨房も気になるのてゆっくりとご説明できなくて…
それに話せば長い歴史がありまして…
今までもいくつかのTV番組や雑誌の取材てもお話していますが
まぁ、早い話、私のメキシコ料理は「愛情から生まれた料理」なのです。
再婚しました私の夫チューチョは、世界的に活躍していたメキシコ有名なミュージシャンでした。
「なぜ、そんな有名人と、しかも外国の人と結婚したのですか?」
というご質問もよくいただきますが、それはまた機会があればお話しすることとして
ここでは「私がメキシコ料理を始めたワケ」をお話しようと思います。

チューチョ58歳、私は42歳の時に運命の再会をしました。
当時は東京にもメキシコレストランはほとんどなく、あってもチューチョに言わせると「美味しいけどメキシコ料理ではない」というもので、彼は懐かしい故国の味を口にすることは出来ませんでした。
当時懐石料理を作っていた私は、メキシコ料理など全く知りません!
でもチューチョにメキシコ料理を作ってあげたい、懐かしい味を食べさせてあげたい、その一心で、まったく何も知らないメキシコ料理を作ろうと思ったのでした。
幸い私は「食べた味の再現」は得意でしたので、チューチョの友人の家に招かれてそこで頂いた料理は作り方を習って作る。
数少ない本物のメキシコ料理を出す店へ行ったら、そこの味を見よう見まねで作ってみる。というようにメキシコ料理にチャレンジし始めたのです。
メキシコにも行くようになってからは、彼の家族に料理を習い、近所の料理自慢のおばあちゃんに習いに行ったりと、地元の味を身に付けていきました。
ま、そんなこんなでレパートリーも広げていき、ついにはレストランを開くことに…
若いころ、趣味の延長て自分の家を改装して小さなレストランをしたい、なんて、思っていたことがいつの間にか実現しちゃたのですから、人生とは面白いものですね。 [人生は二度美味しい」と思っています。

ご参考までに
フジテレビて放送されました、【女主人の繁盛店】
https://youtu.be/mAjwqNckWsU

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添加物は愛情だけ 滝沢久美オロアルテ

「どうして外国人と、しかも有名なミュ ージシャンと結婚したのですか?」
というご質問もたくさん受けます。
本当に ご縁というものは不思議なものですよね。
15歳の時にラジオから流れてくるラテンの歌声に魅了されたのです。
時は1964年、昔の東京オリンピックの年でした。
メキシコの人気グループトリオ・デルフィネスの初来日は嗚り物入りでした。
テレビで、ラジオで、週刊誌で宣伝されていました。
その時もラジオで「トリオ・デルフィネスがやってくる」という特集番組があり、その番組の最後に「東京での第一回目のコンサートのチケットをプレゼントする」との案内があり、さっそく私は往復はがきにせっせと書いて、そのコンサートのチケットを二枚ゲットしたのです。

初めて聴くラテン音楽。その素晴らしさに圧倒された私は、第二回目の東京コンサートのチケットを買って、当日、LPレコードにサインが欲しくてサインをもらう列に並んでいました。
そのとき15歳だった私は メキシコ人から見たらとても幼い子供に見えたようで「なんでこんな小さい子が一人で夜に来ているんだ?」と、怪誇に思ったチュ ーチョは通訳の人を通して聞いたのです。
「一回目のコンサートで感激し、二回目はおこずかいでチケットを買 って来た」と言いますと、とても喜んでくれて、当時泊まっていた高輪プリンスホテルのお庭のビアガーデンで演奏している日にくればチケットはなくても聞けるよ、と言ってくれたのですが、いかんせんまだ高校生の身、いかに一流ホテルとはいえビアガーデンに行くことなんて出来ません。そこで父に頼んで連れて行ってもらいました。
するとまぁ、父とトリオのメンバーが意気投合し、家にすき焼きを食べにくるよう招待をしたのです。
そんなこんなで、なんやら仲良くなって、毎年日本にくるたびに父たちは一緒にナイトクラプに行ったり家族ぐるみの交際が始まりました。
そして時は流れ、その時代にはネットなどありませんから、消息を知ることも難しく、引っ越しをしたりアメリカに行ったりと一時期音信不通になっていましたが、20年経って運命の再会をしたのでした。
人のご縁というものは、不思議なものです。
第二回目の東京公演に行き、サインの列に並んだことが私の人生をのちのち大きく変えることになりました。

「テピート」のこだわりの食器類

テピー トの食器はほとんどのものはキシコ製てす。
グアダラハラの鳩の絵で知られる高級食器パルマール社の皿を中心に、 メキシコの人間国宝的存在、 故ゴルギー ・ゴンサレスさんの食器など、惜しみなく良い食器を使っています。
長く茶道の世界にいた滝沢シェフは食器にも妥協しません。
取り皿として使っていますのは、九谷焼の「日墨友好皿」(墨はメキシコのこと)九谷焼の鬼オ谷口幸夫が一枚一枚手描きで作ったテピートのオリジナル皿です。
グラス類もメキシコの肉厚の素朴なものをはじめとして、バカラ、ティフア ー、ボヘミアン、保谷クリスタルなどなど、繊細な高級品を取り揃え ています。
良いグラスて飲むワインは味が違います。音色も違います。
もう一つ忘れてならないのが、カトラリーレスト。
テピートのオリジナルなそれには、アステカのカレンダーが飾られています。滝沢がメキシコで作らせた品で、だんだんと壊れてしまい残り少なくなってしまいました。
これらの品々は、長く茶道と茶事を研鑽していた滝沢の「料理を文化としてとらえる」という姿勢の現れでしよう。

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